ぐんまの "食・旅・遊" 情報
群馬路をゆく(その1)高崎市の概要及び歴史

2005年10月より、新設しております「群馬県代表 高崎営業所」より、群馬版「食・旅・遊」情報を
初めて配信します。
今回 初めての配信になりますので、営業所が所在している、「高崎市の概要及び歴史」についての情報を配信します。

◆高崎市の概要
高崎市は、群馬県の中央部やや南に位置しており、東に前橋市、西に安中市、南に藤岡市などと隣接しています。北部に赤城山・榛名山・妙義山を望み、利根川・烏川・碓氷川が流れる自然豊
かな都市です。古くは中山道と三国街道が走る交通の要衝で、城下町・宿場町として栄えました。今では、上越新幹線をはじめとする8つの鉄道や関越自動車道などの高速道路、国道が集中しており、首都圏北部の交通の拠点となっています。


◆高崎のあゆみ1
飛鳥・奈良時代の市域は、大豪族であった上毛野(かみつけの)氏の一族が治めていたといわれています。その勢力を示す古墳が現在にも残されています。 鎌倉時代には、幕府の別当職・和田氏が市域を治めるようになり、室町時代に和田城が築かれました。戦国時代に入ると、当主和田信輝は河越夜戦で上杉側に付いて戦死し、その子業繁は上杉謙信に従っていましたが、後に武田信玄に寝返ります。信玄は、交通の要衝である和田城を重要視しており、土屋昌次らを援軍として派遣しています。上杉謙信が幾度か和田城を攻めたものの、和田城は落ちませんでした。その後、業繁は長篠の戦いで戦死し、嫡子信業は後北条氏に従いますが、豊臣秀吉による小田原攻めの際に上杉・前田の軍勢に攻められ降伏しました。

1589年、徳川四天王・十六神将の一人、井伊直政が幕府の命により、中山道の要衝として、和田城を改築し、このときに高崎という名称が生まれました。
以後、時代とともに城主も替わりますが、1619年の安藤重信が入城してからは落ち着きはじめ、その後1695年に大河内輝貞が城主となると、それから大河内氏の治世は10代にわたる明治まで続き、高崎は城下町として中山道、三国街道の宿場町として繁栄しました。江戸中期ごろの高崎の繁栄ぶりは、「お江戸見たけりゃ、高崎田町…」と歌われ、商業都市として飛躍する現在の姿の原形がありました。

◆高崎の名前の由来
井伊直政がこの地に築城する際、鷹を飛ばして城地を定めたことから、「鷹ヶ崎城」の名が起こり、それが転じて「高崎」となったといわれています



◆高崎のあゆみ2 
1900年に市制が施行され、高崎市が誕生すると、1931年には上越全線が開通し、交流拠点都市の基礎となる骨格ができあがります。太平洋戦争が終わると、戦後のすさんだ心を音楽で癒し、都市復興を目指そうと、戦前から音楽活動をしていた丸山勝廣が中心となり、高崎市民オーケストラが生まれました。後に群馬交響楽団に名称を変え、海外公演をするなど、全国的に活躍しています。
1953年の町村合併促進法施行後、高崎市は合併を繰り返し、24万人を超える都市に発展し、2006年1月に合併し、新高崎市が誕生しました。人口は34万人を超え、面積は401.01平方キロメートルに及びます。



次回以降、高崎市の「観光名所」や、「おすすめ食べ物情報」など、一度は高崎に来てみたくなるような情報を配信して行きますので、お楽しみに。