コラム・楼蘭抄
重さの話<2010年6月記>
「魂には重さがあるか?」をアメリカのある学者が調べました。
方法は単純明快。

息を引き取る前の人間の体重と、その後の体重を計って比較したところ、わずか数グラムだけ死後の体重が減っていることがわかったのです。「魂の重さはレモン一個」と同じであると発表され、話題を呼んだことがあります。魂の問題については、ギリシャ哲学の昔から観念論、唯物論など議論の分かれるところですが、天秤によって魂の存在を証明しようとしたところは、いかにも科学者らしいと思います。


神話の中のおもさの話し

天秤メ―カ―の発行する、METTLER NEWSの中に面白い記事がありましたので参考にしました。初夏の頃、南の夜空に輝く天びん座の天びんは、ギリシャ神話では、西隣にある乙女座の女神アストライアが手にしていたものと言われています。彼女は、最高神ゼウスと法の女神テミスとの間に生まれた娘で、偉大な父母から知徳を受け継いだ正義の女神です。いつも正邪を公平に裁判する天びんを持ち、人類に正義の大切さを教えていました。

ところが、平和な黄金時代が過ぎ、四季ができて、人間は自ら食物を作らなくてはならなくなると、次第に醜い争いを繰り返すようになっていきました。悪を生み、堕落していく人間界を見限って、アストライアは天に昇り、星になったのです。澄んだ天上の彼方で、星の座に坐ったアストライア女神と天びんは、現代の人間世界をどう見降ろしているのでしょうか。

神話の世界では、天びんが「罪の重さ」や「正義と邪悪の量」などの観念的な計量の場に、しばしば登場します。裁判の神や正義の女神は、天びんを持つ姿で描かれていますし、ヨ―ロッパでは、天びんが裁判所のシンボルにもなっています。 日頃、損得など計る時に使う「天びんにかける」と言った言葉は古代の人々の心にあった天びんの役割から生まれたのかもしれません。


アヌビスの天秤計

天びんは正邪を計る神の道具とされ、冥界の王オシリスの審判の広間で、罪業を天びんで計り比べる様子が描かれています。

紀元前5000年の古代エジプト、国王ファラオは死を迎えると裁判を受けました。
裁判官オシリスの前で正直に生前の罪を打ち明け、反省すれば再生と王位の再即位が約束されました。 オシリスは死者の心臓(心)を取り出し、検事アヌビスの天秤皿に置き、片方の天秤皿には世界で一番軽い鳥の羽根を置いてファラオの審判を行いました。
もしファラオが罪を隠そうとすれば天秤が傾き心臓は地面に転がり、アヌビスのペット、アメニドに食べられてしまいます。そうなるとファラオは二度と蘇れません。


パピルスに描かれた「死者の書」の天秤審判−エジプト


羽根より軽い心臓を持つ魂だけが天に導かれるとされています。 シュリ―マンが発掘した、ミケ―ネ文明(DC1200年頃)の中の天びんには、蝶の絵が描かれていたと聞きました。魂の重さと関係があるように思えます。

インドの神話ともいえる「仏教説話」のなかの十王信仰に描かれている閻魔大王の住む冥界には10人の裁判担当の王がいます。この世からあの世に来た人間達の生前の罪業を、天びんで計るなど、あらゆる方法で裁いていくのが仕事です。

例えば、この世で「初七日」と呼ばれている七日目には、泰広王が書類審査をし、「ふた七日」の14日目には有名な三途の河のそばで着物を脱がせて、その着物を木の枝にかけ、枝のしなり具合で、罪の重さを決めるという、ややいい加減な計りかたをします。

これに比べ、28日を担当する五官王の役所には、生前の「ウソ」の罪を裁くために、精巧な天びんが用意されていて、一人ずつ計りにかけられ、罪によっては、例の「地獄行」などの刑に処せられると言います。35日目には、閻魔大王の前で裁かれますが、大王は生前のことをすべて映し出される"浄はり"という鏡によって照らし出し、生前のウソを発見すると、くぎぬきで舌を抜くことになっているようです。
天びんに関連した神話は、世の東西を問わず数多くあるのは面白いことです。


物の目方は場所によって違う

「体重60sの人が月へ行くと何sになるか?」クイズ番組の司会者は「10s」と答えた解答者を正解としましたが、これは本当に正解と言えるでしょうか?

日本特産の600gで6,000万円もする珍しい貴金属を月へ持って行き、かぐや姫にプレゼントしたところ、姫のお付きの方に「これは100gですから日本では1,000万円の価値があるものなのでしょうね!」、などと言われたら納得出来るでしょうか。

体重60sの人は月へ行っても、海で泳いでいても、寝ていても60sです。
体重はその人固有の量であり、それを質量と言い場所によって変化はしません。600gの貴金属は溶かして液状になっても600gですし、月へ行っても600gです、いつも不変にもっている量を質量と言います。

ところが、体重60sの人が地球上で計ったバネ式体重計を月へ持って行って計ると、そのバネ式体重計の目盛りは10sの重さを指すのです。月の重力が地球の1/6だからです。

もし、釣合い式天びんで計った60sの分銅を月へ持って行ってゆき、釣合い式天びんで計ればその人の体重は60sとなるはずです。60sの質量の人は月へ行っても60sの質量ですが、重さ、すなわち重量は10sw(s重)となるのです。

英語では「質量」をMass。「重さ」をWeightと区別して、共に日常語として使用しています。
中国文化の影響を受け続けて来た我が国では、重量(重さ)と質量を日常生活では特に使い分けていません。ですから"月では10sです"と言われても、成る程と思うのではないでしょうか。

「重量・質量の基礎」松永省吾著によると、「質量」の概念は極めて特異な概念であって、それは、ギリシャ哲学が存在しなければ、おそらく生まれなかったであろうし、ましてキリスト教神学が存在しなかったら形をなすこともなかったであろう。たとえば中国の科学技術は、ほとんどすべての面で西欧の先んずるものがあったようであり、重量の測定法、重量のつり合、「てこ」の原理などは、すでに紀元前四世紀に記され、慣性運動の概念の芽生えさえも見出されるが、これらはその後千年を経ても、動力学に発展しなかったのである。
すなわち、東洋には質量の概念がなかったのである。「質量」の概念を導いたのはニュ―トンである。日本で「質量」なる語は明治12年に創り出されたのであって、「質量」の概念を理解するまでに、多くの辛苦の年月を経て来ているのである。と書かれています。

遠い月迄行かなくとも、地球上でも場所によって重さは違います。
一般に使用されているバネ式はかりで測定しますと、同じ物でも東京と鹿児島では月ほどとの差はなくとも重さが違ってきてしまいます。

そこで、重力の差による補正が必要となります。補正をしませんと、東京で 1、000gの物は南の那覇では 999.286g、北の稚内では1000.816gとなりますので、那覇と釧路では、1sにつき1.53gも違ってしまいます。赤道付近上にあるエクアドル共和国の都市キト―と南極の昭和基地では、1sにつき 5.3g、キト―と北極近くにあるヘルシンキでは 4.7gですから、緯度の差のない北極と南極では差はありませんが、赤道から離れるに従って、緯度の差で、差が大きくなる分けです。

もし、1g1,500円で1sの金を買うとしますと、稚内と那覇では2,295円、昭和基地とキト―では7,950円も差がでてしまいます。体重ならともかく、高価な貴金属の取引となると問題となるでしょう。


重さと質量の関係

大きさ、形、材質など全く等しい二つの「もの」を合わせると、その"重さ"は二倍になります。
全く等しいものを二つ合わせたのだから、当然この「もの」の「量」も二倍になると考えられます。重さが二倍になれば、質量も二倍になる。

そこで、重さは質量に比例する、と仮定して、ここでちょっと考えてみよう。
もし重さと質量が、いつ、どんな状況のもとでも正確に比例しているなら、二つの概念のうち、一つは余計な概念となってしまいます。重さは、その「もの」と地球との間の重力によって起こされる、外的なものであり、質量はさきほどの体重のようにその「もの」に本来備わっている内的な特性でありますから、概念上に違いがあります。

月へいった人の話から、重さと、質量は比例しない事は分かるでしょう。
重さは、場所によって影響を受けますが、質量の方は影響を受けません。この事は、体重60sの人は月へ行っても60sの質量だが、重さの方は10swになってしまう事がら分かります。

物が落下する場合、鉛直下向きに、地球に引っ張られて落下して、重い物も、軽い物も同時に落ちます。ガリレイ以前の大学者は重い物は、軽い物より早く落ちると考えていたようです。この引っ張る力を「重力」と言います。

重さは、その「もの」と地球との間の重力によって起こされますから、「重さ」は「質量」×「重力」と言う事になります。「重さ」は力の測定によって計る事が出来ますが、「質量」の方はどのようにして計るのでしょうか。


質量は「天びん」ではかる

天びんは、左右の皿にそれぞれ計ろうとする物と分銅とをのせて、それらにかかる力を釣合わせるる装置でするから、重さを測定する器具です。
天びんの左右の皿の広がりは、地球規模に比べて非常に小さいので、皿の場所での重力の差は無視でき、天びんは計る物と分銅の重さを「同一の場所」で比較している事になります。

計ろうとする物の重さ計ろうとする物の質量
 分銅の重さ    =   分銅の質量

という関係になりますから、単位の重さの分銅を適当に決めておけば、この単位分銅の質量を単位質量として、すべての物の質量が、天びんを用いて測定出来る事になる訳です。この単位分銅がキログラム原器です。

キログラムは始め、4℃における純粋な水1リットルの容積が持つ質量と定義され、それに基づいて純白金で作られました。現在の国際キログラム原器は白金Pt90重量パ―セント、イリジュウムIr10重量パ―セントの合金で作られ、直径、高さとも39oの円筒形で、その質量が正確に1sです。

この原器はパリ郊外の国際度量衡局の地下室に保管されています。
この写しが各国に交付されて、各国の原器になっていますが、まったく同じ質量を有するようには製作出来ませんので、各国の原器の値は国際キログラム原器と比較測定して定めています。

日本に交付されている原器(6)、副原器(30)は日本キログラム原器と名づけられ、共に通商産業省工業技術院計量研究所に保管されています。 分銅を使わない、バネばかりのような器具では,「質量」×「重力」を計っていますから、重力を補正しなければ正しい質量は計れない分けです。


重力のない星ではどうしてはかるのか?

宇宙空間では重力がないため、私たちが普段使っているはかりは使えません。無重力の宇宙で質量を計ろうとする時には、慣性質量を使います。これは「動いている物体は止まりにくい」という慣性の法則により、「動きやすさ」「動きにくさ」で質量の比較をするのです。

実際には、質量を計りたい物体にバネを付けて、一定の速さで回転させます。
まず「1kgの物体を回転させ、バネが1p伸びたという基準」が生じれば、バネが2p伸びる物体は二sの質量があるというわけです。


2010年6月 相談役 羽石光臣