コラム・楼蘭抄
国歌と国旗のお話<2011年7月記>

< 国歌 >

君が代の成立ちを調べてみました。
国歌「君が代」の元歌は、今から約1,100年ほど前に出た歌集「古今和歌集」に「読み人知らず」「題しらず」として載っている古歌です。

これに曲がつけられたのは、色々な説が有るようですが、有力な説として、明治2年7月英国王子エジンバラ公が来られて、天皇陛下に謁見するにあたりまして、横浜に駐在しておりました英国軍楽隊長、ジョン・ウィリアム・フェントンが英国国歌と共に演奏する日本国の国歌の楽譜を求められました。当時日本には国歌が有りませんでしたので、儀展官の原田と通訳の乙骨(おつこち)は指示を仰ぎましたが「宜きに計らえ」という事でした。

当時、和歌と言えば誰しも「君が代」を思い浮かべる位、最も代表的でポピュラーだったそうです。
たまたま原田が薩摩出身でしたので平素自分が、愛唱している薩摩琵琶歌の「蓬莱山」に引用されている「君が代」を選び、その作曲をフェントンに頼んだということとなっています。

しかし、その曲は、日本人の音感にふさわしくないということになりました。
現行の曲の作曲者は宮内省雅楽課の林広守が雅楽式の曲を公表され、これに洋楽の吹奏楽譜をつけたのは、当時教師として日本に滞在していたドイツ人の音楽家フランツ・エッケルトです。
明治13年11月、天皇の誕生日を祝って宮中で初めて演奏されました。

この曲については、次のようなエピソードがあります。
日本の代表的作曲家山田耕作は、若い頃ドイツに留学していました。
その頃、ドイツの大学の音楽教授たちが、世界の主な国歌について品定めをしました。
その結果第一位に選ばれたのが日本の「君が代」でした。

ところで、その翌明治14年文部省の発行したわが国初の音楽教科書「小學唱歌集初編」には、それとは全く異なったメロディーの「君が代」が載っています。

1番
 君が代は。
 ちよにやちよに。
 さざれいしの。
 巌(いはほ)となりて。
 こけのむすまで。
 うごきなく。
 常盤(ときは)かきはに。
 かぎりもあらじ。

2番もあります。

 君が代は。
 千尋(ちひろ)の底(そこ)の。
 さざれいしの。
 鵜(う)のいる磯(いそ)と。
 あらはるるまで。
 かぎりなき。
 みよの栄(さか)えを。
 ほぎたてまつる。

しかし、この「君が代」は学校でもあまり唱われなかったらしく、文部省は明治26年8月20日の官報第3,037号付録で、現行の歌曲を学校の儀式に用いるよう制定しました。
外国の国歌と比べてみますと、日本と韓国の国歌は大変平和な歌です。


−中国国歌−                           
立て、奴隷となるな 血と肉もて築かむ よき国 われらが危機せまりぬ      
今こそ 戦うときは来ぬ  立て立て 心合わせ敵にあたらん 
め進め 進めよや

− アメリカ国歌−
見よや 朝の薄明かりに たそがれゆく 美空に浮かぶ われらが旗 星条旗を
弾丸降る 戦いの庭に 頭上を高く ひるがえる 堂々たる星条旗よ
おお われらが旗のあるところ 自由と勇気共にあり

−韓国国歌−
1.東海(日本海)の水と白頭山が乾いて擦り減るまで、 
神の御加護(保佑=ボーウ)がなされん、我ら万歳。
ムクゲの花、3000里、華麗な山河。 大韓人は大韓(民国)を永遠に保全しよう。

2.南山の老松、鎧着て、四季も変らぬその姿。
ムクゲの花、3000里、華麗な山河。 大韓人は大韓(民国)を永遠に保全しよう。

3.秋空晴れて澄み渡り、月に映せし我が心。
ムクゲの花、3000里、華麗な山河。 大韓人は大韓(民国)を永遠に保全しよう。

4.この気と心で忠誠尽くして、照る日も曇る日も、国を愛す。
ムクゲの花、3000里、華麗な山河。 大韓人は大韓(民国)を永遠に保全しよう。

「君が代」は千年の長い時間を生きつづけて、貴族から下層階級に至るまで歌われ続けていた歌詞を、明治になって、誰でも歌える曲に作曲された分けです。

< 国旗 >

日本の国旗に使われている文様で、白地に赤い丸をベースとしています。
国旗の場合日章旗と呼びます。

その歴史は古く平安時代より遙か昔までさかのぼります。
太陽を象徴とした文様です。

元々島津藩が、海外交易用の旗として使っていたのを開国時に商船を区別する旗として江戸幕府が正式に採用したのが日の丸が国旗として使われた起源です。

その後、日の丸は、明治政府、日本国政府に引き継がれ国旗として利用されました。
しかし日本国では正式に国旗を制定する法律が無く、平成11年(1999年)の「国旗及び国歌に関する法律」で正式に国旗として認定されました。



2011年7月 相談役 羽石光臣